2013年10月27日日曜日

R100

1回観てきました。


『R100』予告編


※この作品が好きな人は他の感想を読んだ方が良いかと思います。

さっくり書いておこうと思います。

映画.comの作品紹介ページからあらすじを引用。
都内有名家具店に勤務する片山貴文は、「ボンデージ」という謎めいたクラブに入会してしまい、それ以降、さまざまなタイプの美女が片山の日常生活の中に現れるように。過激なボンデージに身を包み、家庭や職場にも出現する美女たちは、片山をこれまでに味わったことのない世界へといざない、プレイは次第にエスカレートしていくが……。

これまでの松本監督作品は全て劇場で観てるけれど、『大日本人』以外はあまりパッとしない印象。「『しんぼる』よりはマシかなぁ」と思ったので、好きな順に並べるならこんな感じ。

『大日本人』>>>『さや侍』>>『R100』>『しんぼる』

一応断っておくと、『大日本人』が映画作品全般の中で好きな作品というわけではないです。。。


前作の『さや侍』では同じシリーズのコントを何本も連続で見させられている感じがしましたが、今回は三種類くらいの異なるコントをランダムで見せられてるような感じがしました。

この「異なるコント」と感じたのは、おそらく作品中に余計だと感じる部分が多かったからではないかと思います。以下にいくつか挙げます。

○主人公の顔の加工
あらすじにもある通り、怪しげなクラブに入会してしまった主人公の片山(大森南朋)は、日常生活の中で突然に女王様が現れて虐げられるというプレイを受けます。

こんな感じで時間と場所を問わずプレイが始まります


で、 絶頂に至った片山が恍惚の表情を浮かべるわけですが、この時の顔がCGで加工されています。目が黒くなって、頬が膨らむっていう。

わざわざCG使ってまで見せるほど大きな変化にも見えないし、裏を返せばこんな表現を使う必要があったのかと思ってしまいました。
何よりも、一番の見せ場となるところで俳優の表情を潰すのは失礼なのではないかと。

主人公の片山


○子どもの扱いについて
片山が自宅で女王様の襲撃を受けるシーンで、彼の息子がプレイを目撃してしまうという展開があります。そしてその息子も「パンツ一丁で縛り上げられたうえに吊るされる」というシーンがありました。

奥に座っているのが主人公の息子

このシーンは面白い面白くない以前に生理的に不快でした。

たしかに本編が始まる前に「動物や子どもには危害を加えてませんよ」みたいな断りは出てたし、何かしら子どもが仕打ちを受けるようなシーンがあるのだと分かってはいましたが(いきなりネタバレを匂わせてるのはどうなのだろうか)。
「息子もMでした」みたいな展開になるけれど、他に見せ方は無かったんですかね。

○メタ的な視点
上映開始から40分ほど経過して「R100」のタイトルが出た後、 どこかの休憩所で待っている四人組が映って、これまでの片山の話から展開が変わります。話が進むうちに、この四人は試写会に参加していて、今まで観ていた片山の話は100歳の映画監督が撮影した作品だと分かります。
これ以降、片山のプレイが一つ終わると四人組のシーンが挟まれるという構成になります。

四人の会話は試写で観ている作品=『R100』の片山が出てくる部分なので、彼らの会話では現実の観客がいま観ている作品についての意見が語られています。

こう書くと「メタ的→なんとなく知的に見えがちな構成」のようだけれど、実際には予め観客の意見を作品中で言ってしまうことで、「お前らの考えることくらいわかってるからww」みたいに言われているようにしか感じませんでした。

話が少しそれるけど、『しんぼる』が公開されたときのインタビューで監督はこんなことを答えてるんですよ。
「『大日本人』のときに、映画っていうのは、やっぱり海を渡るんやなあと改めて感じたんですよね。だから、日本人の観客だけを意識していたら面白くないなあと。それで、海外向けというか、無言劇にしたかったんですよね。しゃべってしまうと、どうしてもセリフを字幕に起こすときに、自分の意図した感じに、ちゃんと伝わっているかどうかという不安やジレンマが、ちょっとストレスだったんですよ」
 このインタビュー記事には直接書かれていないけれど、記憶が確かならば、「海外で公開されると分かっていたら、やり取りの間などが伝わるように編集していたのに」という感じの内容を言っていたと思います。
で、『しんぼる』では主人公が脱出する方法をアメコミタッチの絵で説明するという、この「海外に向けて」という部分を予め皮肉ったようなシーンが出てきます。
これ、結構嫌いだったんですよ。

今回の「100歳の監督が撮っている作品」という設定にも同じような臭いを感じました。
 うまく言い逃れしてる構造のようだけど、これを見ている側には結局、「観客は監督自身は<観客がこう思っている>ことを分かった上であえてやってる』ということを思いながら作っているんだろうなと感じる」というようにしか見えないのですよ。

どうしてもこのメタシーンを入れたかったなら最後の最後で出すだけでも良かったような。
合間に入るのはただただノイズになるだけだと思います。

○音について
「喜びの歌」とか他のクラシックだとかかかるのは別に構わないんですよ。

むしろどの場面でもBGMが大きかったのが気になりました。

○女王様について
SMということで女王様がたくさん出てきます。

クラブ「ボンデージ」の女王様の面々


前半で出てくる女王様はそれなりに面白かったんですよ。

冒頭で登場する冨永愛の女王様

出てくる寿司を潰し続けるサトエリの女王様

サトエリに寿司を潰してもらえるならむしろ「ありがとうございます」的な。
それはさておき。

 後半に入ってから(メタ構造が明らかになってから?)出てくる女王様には、なぜか字幕で説明がつきます。
例えば大地真央の女王様は「声を自在に変えることができる」という能力を持っているのですが、その能力を一通り見せたところでわざわざ「声の女王様」って出てくる。能力なんて見れば分かるし、今見たばかりだし。

もっとひどいのは渡辺直美の女王様の扱い。
大きな荷物を引きずって来て、どんな能力を見せるのかと思ったら「唾液の女王様」と先に字幕で表示されてしまうんですよ。この後に能力見せられても、当然ながら何も面白くないのですよ。

こういう構成って考えないんすかね?


(´-`).。oO
とまぁ、こんな感じで余計だと思った部分がたくさんありました。

あと気になったところで言うと、セリフの言い回しですかね。

右:「ボンデージ」を追う謎の男・岸谷(渡部篤郎)

右:片山に説教する警察官(松本人志)

岸谷と警察官は松っちゃんらしい屁理屈をこねたような言い回しをするのだけれど、岸谷よりも警察官のほうが手馴れた感じで語ります。もちろん「脚本を書いている本人だから」ということもあるけれど。
ただ、逆に言えば脚本の時点でどのキャラクターも「松本人志」であって、当て書きや修正はしていないのかなと思ったり。

今までのどの作品にも脚本または脚本協力として放送作家の人たちがクレジットされています。
実際にどういうプロセスで脚本が完成するのかはもちろん知る由がありません。ただ、複数人の手が入っているにもかかわらず、「最初に出したアイディアをそのまま練り上げずに並べたような散らかりよう」や、「登場人物の広がりの無さ」ってどうなんすかね。
少なくとも自分以外の人の駄目なアイディアに対してボツを出すような仕組みが機能していないのではないかと思ってしまいます。


最後になんとなくこれを貼って終わりにしようと思います。

N.W.A. "100 Miles and Runnin'"

0 件のコメント:

コメントを投稿